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佐藤 脩(さとう おさむ、1886年(明治19年)12月5日 - 1974年(昭和49年)2月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の中華民国専門家である。旧姓古川。 ==人物・来歴== ;略歴 横浜市出身。本籍は青森県にあった〔『海軍兵学校沿革』「明治三十七年 十一月十八日」〕。横浜一中を経て、海軍兵学校に首席〔〔『日本陸海軍総合事典』262頁〕入校。1907年(明治40年)卒業。席次は172人中26番。佐藤は海兵35期の一人である。1913年(大正2年)12月大尉へ進級し、「薩摩」分隊長。翌年海軍大学校(以下「海大」)専修学生を修了し、航海科専攻士官となる。佐藤は6艦で航海長を務めた。 1919年(大正8年)、海大甲種学生に入校(19期)。海大同期に草鹿任一、小沢治三郎がいる。1922年(大正12年)砲艦・「伏見」艦長となる(階級は少佐)。その後は第一遣外艦隊参謀、軍令部参謀(三班六課)、軍令部参謀兼第一遣外艦隊司令部附、軍令部参謀と参謀勤務が多く、「長門」副長を経て、1928年(昭和3年)12月大佐へ進級。第二遣外艦隊所属の「対馬」艦長に補され、北支警備に従事した。翌年には軍令部に戻り、三班六課長として中華民国情報の責任者となる。なお満州事変勃発に伴い、六課は中華民国専門となり、七課・八課が分離したため一時3つの課長職を兼務している。事変後に軍令部次長の百武源吾が満州視察を行った際は同行した〔257頁〕。1932年(昭和7年)12月、中華民国公使館(のち大使館)附武官となり、緊張状態にある日中間の調整にあたる。在任中に少将へ昇進し、同職を4年務めた。1937年(昭和12年)12月、予備役編入。 日本屑鉄統制株式会社の常務を務めていた〔『大衆人事録 東京篇』「佐藤脩」〕が、1943年(昭和18年)10月に充員召集を受け、北京在勤武官として再び中国での活動に従事。召集解除は1946年(昭和21年)12月であった。稚松会会員。 ;中国通 佐藤は津田静枝、須賀彦次郎らと同様、日本海軍が養成した中国問題の専門家であった。海軍における中国専門家は傍流であった〔『海軍と日本』90頁〕が、佐藤は海大甲種出身という珍しい存在である。少佐時代から中華民国関連の職務にあり、中華民国要人の知己も多かったが、対馬艦長時代には海賊の頭目と称された人物を訪問するなど、様々な階層とつながりがあった。佐藤は蒋介石の信頼を得ており、予備役編入の際は日本海軍の軍人としてただ一人、中華民国最高勲章を授与された〔『海軍くろしお物語』18頁〕。 ;航海長を務めた艦 *防護巡洋艦:秋津洲 *装甲巡洋艦:八雲 *戦艦:石見・朝日・摂津・香取 ;親族 *女婿 田中武克(海軍少佐・海兵62期首席〔『日本陸海軍総合事典』634頁〕) *妹婿 栗田健男(海軍中将・海兵38期)〔『日本陸海軍総合事典』「主要陸海軍人の履歴」栗田健男・佐藤脩〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤脩 (海軍軍人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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